ニュース HOME > ニュース > 冒険に出よう3~茶教勉強会~ 2023/7/8 冒険に出よう3~茶教勉強会~ 「冒険」の旅に出よう~孫泰蔵著『冒険の書』を読んで~ ―無用の用ー 「この世に雑草という草はない」これは、NHKの朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルとなった牧野富太郎さんの言葉です。日本の植物学の父とよばれた彼は「どんな植物にも固有の名前がある。それを無視して『雑草』などと人間にとって要不要だけで分類するのは、おこがましい」というのです。私たち多くの人が「その人やモノが存在する意味」を考えずにはいられません。そしてその意味を見出す際、「役に立つか立たないか」という見方からなかなか逃れられないのです。 例えば、中国の思想書である『荘子』にある大木の話。大工の棟梁が、ある大木のことを製品を作るのには不向きなので役立たずの木とよんでいました。私たちは「つかえる」とか「便利だ」といった見えやすい観点で役に立つかどうかを判断しがちで、その意味では大木も役立たずと言えるでしょう。でも、世間的な価値観とは別のあり方、例えば「安らぎ」や「生命」といったことに重きを置いてみたとき、大木を見て癒される、木陰で休むというように、役立たずが一気に役に立つものへと転換するのです。まさに荘子のいう「無用の用」だと言えるでしょう。つまり、役に立つか立たないかは、ものの見方次第であり、この世の中に役に立たないというものはない、ということなのでしょう。別の言い方をすれば、役に立つか立たないかの基準は様々だということ。そのものさしが数字やお金といった目に見えやすい価値観の一つに集中しがちで、それ以外のものさしがほとんど使われないことに危惧の念を覚えずにはいられません。「柳は緑、花は紅」二つの違うものを一つのものさしで安易に比較するなという意味の禅語です。どちらもそれぞれに輝いているわけで、全く別のものさしでそれぞれのあるがままの姿を見るしかないのです。 一つの価値観に囚われすぎて振り回されてはいけない。「無用」だと考えてしまうものも視野に入れ、「すべては複雑に絡み合っていて、だからこそ豊かな世界が生み出されているのだ」という世界観をもつようにする。そうやって生きていく方がよほどおもしろくて、みんなが幸せに生きていける。荘子の「無用の用」はそんなことを教えてくれているような気がします。 ―自分の「色眼鏡」を自覚する― 一杯の水 田口犬男大海から一杯の水を掬(すく)ってもそれはもう海ではないそれはただの水だ だがそれを海に帰すと水は再び海になる 真実(ほんとう)は誰もが海なのだだが私たちは「一杯の水」になっていないだろうか 『ハイドンな朝』(ナナロク社、2021年)より 「分かる」ということを私たちは求めて生きています。学校の勉強でも「分かった」と言えば褒められ、「分からない」というと怒られます。でも分かるということは、大きな海の水をすくい取って分析するような作業であって、分かったとしても、それはもう「大海」ではないのです。自分の中にある物差しでものごとを分けているだけで、主観によって組み立てられた虚構の認識にすぎず、掬った水はもはやありのままの姿、真実ではないということです。それなのに、私たちは分かったことが真実だと、一杯の水が大海だと、信じて疑わないのです。『歎異抄』の第四章にある親鸞の言葉で「この慈悲終始無し(慈悲は完全なものではない)」というのがあります。親鸞は世間で善い行いとされる社会奉仕などを否定していたわけではないと思います。しかし、仏道という点から言うならば「それは不完全なものと認識せよ」と言っているのでしょう。自分の都合が入った善という意識なしに、つい善いことをしている気分になって満足するなというのです。自身の不完全さを自覚し、自分の価値観を疑う目をもつこと。それがこれまで自分や社会を縛ってきた常識を問い直し、新しい意味を見出していくことにつながります。それこそが学びであり、社会を変える原動力になると思うのです。茶教勉強会は、「知行合一」をモットーに、知識を得るだけでなく実践につなげていき、人格として身につけることを目的としています。学びを深め、学んだことを実践することで美しさは培われます。そうして得られた美しさは自身の幸せ、ひいてはみんなの幸せにつながると確信しています。そんな美しい人を目指してテーブルスタイル茶道では心のあり方を学びながら、お互いを高め合う活動を行っています。ぜひ茶教勉強会にご参加ください。皆さんと一緒に豊かな生き方を追求できたらと思っています。 月に一回、椿の会本部(名鉄鳴海駅 徒歩5分)にて開催しております。ご新規様は1,000円にてご参加いただけます(zoomでのご参加も可能です)。お申込みお待ちしております。 椿の会テーブルスタイル茶道 副代表 久野 麻理
「冒険」の旅に出よう~孫泰蔵著『冒険の書』を読んで~
―無用の用ー
「この世に雑草という草はない」
これは、NHKの朝ドラ「らんまん」の主人公のモデルとなった
牧野富太郎さんの言葉です。
日本の植物学の父とよばれた彼は
「どんな植物にも固有の名前がある。
それを無視して『雑草』などと人間にとって要不要だけで分類するのは、
おこがましい」というのです。
私たち多くの人が「その人やモノが存在する意味」を考えずにはいられません。
そしてその意味を見出す際、
「役に立つか立たないか」という見方からなかなか逃れられないのです。
例えば、中国の思想書である『荘子』にある大木の話。
大工の棟梁が、ある大木のことを製品を作るのには不向きなので
役立たずの木とよんでいました。
私たちは「つかえる」とか「便利だ」といった
見えやすい観点で役に立つかどうかを判断しがちで、
その意味では大木も役立たずと言えるでしょう。
でも、世間的な価値観とは別のあり方、
例えば「安らぎ」や「生命」といったことに重きを置いてみたとき、
大木を見て癒される、木陰で休むというように、
役立たずが一気に役に立つものへと転換するのです。
まさに荘子のいう「無用の用」だと言えるでしょう。
つまり、役に立つか立たないかは、ものの見方次第であり、
この世の中に役に立たないというものはない、ということなのでしょう。
別の言い方をすれば、役に立つか立たないかの基準は様々だということ。
そのものさしが数字やお金といった目に見えやすい価値観の一つに
集中しがちで、それ以外のものさしがほとんど使われないことに
危惧の念を覚えずにはいられません。
「柳は緑、花は紅」
二つの違うものを一つのものさしで安易に比較するなという意味の禅語です。
どちらもそれぞれに輝いているわけで、
全く別のものさしでそれぞれのあるがままの姿を見るしかないのです。
一つの価値観に囚われすぎて振り回されてはいけない。
「無用」だと考えてしまうものも視野に入れ、
「すべては複雑に絡み合っていて、
だからこそ豊かな世界が生み出されているのだ」
という世界観をもつようにする。そうやって生きていく方が
よほどおもしろくて、みんなが幸せに生きていける。
荘子の「無用の用」はそんなことを教えてくれているような気がします。
―自分の「色眼鏡」を自覚する―
一杯の水 田口犬男
大海から
一杯の水を掬(すく)っても
それはもう海ではない
それはただの水だ
だがそれを海に帰すと
水は再び海になる
真実(ほんとう)は誰もが海なのだ
だが私たちは
「一杯の水」になっていないだろうか
『ハイドンな朝』(ナナロク社、2021年)より
「分かる」ということを私たちは求めて生きています。
学校の勉強でも「分かった」と言えば褒められ、
「分からない」というと怒られます。
でも分かるということは、
大きな海の水をすくい取って分析するような作業であって、
分かったとしても、それはもう「大海」ではないのです。
自分の中にある物差しでものごとを分けているだけで、
主観によって組み立てられた虚構の認識にすぎず、
掬った水はもはやありのままの姿、真実ではないということです。
それなのに、私たちは分かったことが真実だと、
一杯の水が大海だと、信じて疑わないのです。
『歎異抄』の第四章にある親鸞の言葉で
「この慈悲終始無し(慈悲は完全なものではない)」というのがあります。
親鸞は世間で善い行いとされる社会奉仕などを
否定していたわけではないと思います。
しかし、仏道という点から言うならば
「それは不完全なものと認識せよ」と言っているのでしょう。
自分の都合が入った善という意識なしに、
つい善いことをしている気分になって満足するなというのです。
自身の不完全さを自覚し、自分の価値観を疑う目をもつこと。
それがこれまで自分や社会を縛ってきた常識を問い直し、
新しい意味を見出していくことにつながります。
それこそが学びであり、社会を変える原動力になると思うのです。
茶教勉強会は、「知行合一」をモットーに、
知識を得るだけでなく実践につなげていき、
人格として身につけることを目的としています。
学びを深め、学んだことを実践することで美しさは培われます。
そうして得られた美しさは自身の幸せ、
ひいてはみんなの幸せにつながると確信しています。
そんな美しい人を目指してテーブルスタイル茶道では心のあり方を学びながら、
お互いを高め合う活動を行っています。ぜひ茶教勉強会にご参加ください。
皆さんと一緒に豊かな生き方を追求できたらと思っています。
月に一回、椿の会本部(名鉄鳴海駅 徒歩5分)にて開催しております。
ご新規様は1,000円にてご参加いただけます(zoomでのご参加も可能です)。
お申込みお待ちしております。
椿の会テーブルスタイル茶道 副代表 久野 麻理